『生活保障――排除しない社会へ』

■今週の本棚:中村達也・評 『生活保障--排除しない社会へ』=宮本太郎・著
 (2010年3月21日『毎日新聞』東京朝刊)
http://mainichi.jp/enta/book/news/20100321ddm015070008000c.html
 (岩波新書・840円)
 ◇「網」だけでなく「綱」自体が危うい時代
 セーフティネットという言葉が新聞紙上でも目につくようになったのは、九〇年代末以降のことであった。当初は、「サーカスの空中ブランコや綱渡りで、演者の落下に備えて下方に張っておく網」とか「安全網」といった説明が付されて失業手当や生活保護などが論じられていた。もちろん現在では、そんな説明なしでも十分通じるようになった。セーフティネットの認知度が、それだけ高まったからにちがいない。
 しかし、落下してきた人を待ち受ける安全網というのでは、いかにも受身的だ。かつてシュレーダー独首相が「セーフティネットからトランポリンへ」というスローガンを掲げたことがある。落下した人を、トランポリンによって上のロープに投げ返すような政策が必要だというのである。職業訓練やカウンセリングや職業紹介など、積極的労働市場政策と呼ばれるものによって、人々を再び労働市場に向かわせるというわけである。
 実は、こうした発想は、上に張られたロープが最後まで渡りきることのできるものであることが暗黙の前提となっている。ところが今や、少なからぬ人々が、向こう側まで渡りきることのできるロープを見出(みいだ)せないでいる。まずロープの本数が不十分、つまり労働需要が不足している。ロープが細すぎて危険、つまり賃金水準が低いなど処遇が悪い。そして多くのロープが途中で切れている、つまり有期雇用や派遣労働など不安定就労が拡(ひろ)がっている。セーフティネットやトランポリンを準備するだけでなく、しっかりとしたロープを張ること、つまり雇用と社会保障を連携させて生活保障を再設計することこそが重要。これが著者の立場である。
 その際に注目するのが、スウェーデンの経験である。政府は、人々が失業や病気、知識の不足などを乗り越えて就労し社会に参加する条件を提供する、つまり「排除しない社会」という考え方。一方、人々は就労を通じて納税者として福祉国家を支える、つまり社会契約的な関係。そして、各種の給付を各人の現行所得に比例させることによって、人々の労働意欲に報いる。スウェーデンのような「大きな政府」が納税者の支持を得てきたのに対して、「小さな政府」を求めるアングロサクソン諸国で納税者の反乱が起きたその理由が解き明かされる。
 ただしこの本は、スウェーデン・モデルの礼賛でもその勧めでもない。むしろ著者は、スウェーデンが転機を迎えていることを強調する。グローバル化と脱産業化が進む中で多くの産業で省力化が進み、しだいに労働力を吸収できなくなっている。経済が成長するその一方で失業率が下がらない「雇用なき成長」に陥っている。九〇年代以降のスウェーデンでは、失業手当や公的扶助を受給する人、職業訓練を受けても就労に結びつかない人など、労働市場の外部に留まる人が高止まりしている。たとえ積極的労働市場政策を進めても、産業や企業の側に労働力を受け入れる場がなくては、生活保障はままならない。オバマ政権のグリーン・ニューディールに見られるように、持続可能な雇用の場を創出しそれをどう拡げてゆくかが課題となっている。もちろんこれは、日本の現状にとっても重いメッセージである。しかし、より長期で考えるならば、労働時間の短縮(したがって自由時間の増大)によってより多くの人々が仕事を分かち合い失業をなくす途(みち)、つまり「より少なく働き、より良く生きる」といった選択肢もありうると思うのだが、どうであろうか。▲

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